防災・減災への指針 一人一話

2013年12月04日
高齢者や避難所にいる方の不安を少しでも軽減する役割を果たすために
グループホーム「桜の家」 理事兼総括施設長
内海 裕さん

役立った水と食料の備蓄

(聞き手)
 東日本大震災以前の災害の経験と、災害への対策や備えについてお聞かせください。

(内海様)
 東日本大震災の前に、宮城県北部連続地震を体験しています。この辺りはさほど被害が出ませんでしたが、直下型の地震という事もあり、東松島や県北地域などの内陸部が大きな被害を受けました。
私たちは、常に地震災害の被害を想定していますが、いつどのような被害が起きるかは分かりません。その為、グループホーム入居者とショートステイ、デイサービスをご利用されている方と職員の数を合計し、1日3食3日分の食事と水を備蓄していました。
 震災時に活きた事は、食事を備えていた事と、昔ながらの石油ストーブを使い、完全ではないにしても暖を取れた事だと思います。
お湯を沸かす事ができましたし、灯油もタンク4台に備蓄してありましたので、そこから確保する事もできました。ですが、長期間に渡って停電と断水が続いた事は今までにない経験でしたので、不安な毎日だった事を今でも覚えています。
幸い、松島町桜渡戸にあるこの施設では地震被害がほとんどなく、花瓶が一つ割れた程度で、入居者の方も職員も怪我をせずに済みました。ここは内陸部でしたので、沿岸部で津波被害が起きている事を私たちは知りませんでした。ラジオで情報収集をした時に分かりました。その時は確か夕方の5時くらいだったと思います。
この辺は防災無線が近くにあり、そこから大津波警報が発令されたという放送を聞いたので、私たちはここで何が出来るのかを考えました。そして、まず入居者の安全確保をしました。
家族のいる職員たちは自宅に帰って家族の安否を確認したいという事でしたので、夕方5時半くらいに帰しました。この判断が危険かどうかはその時点では正直分かりませんでした。
既に外は真っ暗になっていたと思います。それから、その場に残った職員と駆け付けてきた職員とで、備えていた食事と水を取り、フロアに雑魚寝をして夜を過ごしました。

(聞き手)
 備蓄は最低限3日用意しているなど、防災対策はかなり意識していたのでしょうか。

(内海様)
 そうですね。備蓄品の保存期限が5年で、水は6年だったと思いますが、その期間内で防災訓練をした時に、古くなってきた物を使って炊き出しなどをしていました。
後は、地域の方と交流する機会がありましたので、試食会を開いて食べてもらうなどしていました。あくまで「備え」という事で、使用するような事態にならなければ良いなという感じでした。
ただ、準備していなければ、大変だとも思い、備蓄していました。

(聞き手)
防災訓練は年に何回ほど実施されるのでしょうか。

(内海様)
 毎年3月から11月まで毎月行います。冬場は外に避難誘導するのが難しいので、消防と連携して、ホットラインを用いる通報訓練を年に3回行っていました。
他にも、防災ビデオを見て勉強する鑑賞会は、職員だけでなく、入居者の方、利用者の方も交えて開いていますし、応急処置や心肺蘇生法、AEDの取り扱い方の研修を12月~2月の冬場に行っています。やはり命をお預かりする仕事なので、私たちに出来る事は常日頃から備える事だと思います。
実際に災害が起こると慌ててしまうかもしれませんが、訓練は必要だと考えています。

(聞き手)
 発災時はどちらにいらっしゃったのでしょうか。

(内海様)
 発災時、私はこの施設(松島町桜渡戸にある認知症高齢者グループホーム桜の家)にいました。

(聞き手)
 ここは海から離れた場所ですが、揺れた時に津波が来るという予感はありましたか。

(内海様)
 あの時は、正直に言うと津波の予見はしていませんでした。揺れが収まって停電と断水になりましたが、1時間以上停電していたという記憶がありません。しばらく待てば電気は復旧するだろうと、浅はかな考えを持っていました。
津波に関しても、チリ津波やスマトラ沖地震での津波が報道されていた事は知っていましたが、まさか日本でこれだけの被害を及ぼす津波が起こるとは全く想定していませんでした。
 沿岸部にお住まいの方でも、津波が来ると考えていなかった方が多くいらっしゃったと聞きます。
ですから、今回の災害が教訓となり、今後活かされなければならないと思います。
過去の震災被害の話を聞いていれば津波が来ると予測出来たかもしれませんが、私はそういった危機感は全くありませんでした。
 余談になりますが、昭和61年に吉田川が台風で決壊し、現在の大崎市鹿島台の田んぼが水浸しになった事があります。その時、友人の父親の車に乗せてもらって、その様子を見に行ったのですが、それ以来、私は常に台風で水害になると、その時の光景を思いだします。
今も大雨の時には強く意識するようになりました。
「ここは大丈夫だろう」と思っていても、いつ何時に水量が増えて土砂災害になるかは分かりません。
また、この施設の橋の向こう側が土砂災害の警戒地区になっているのですが、この施設も地域的に近いので、もしかすると土砂災害に遭う可能性があるかもしれません。
 話を戻しますが、震災当時は、避難するといっても、避難場所がなかったので、ここに留まるのが最も安全だと判断して動きませんでした。

(聞き手)
入居者の皆さんは、ある程度落ち着いておられたのでしょうか。

(内海様)
落ち着いていました。動揺していた利用者の方も中にはいらっしゃいましたが、どちらかと言うと職員の方が動揺していたと思います。

入居者への対応と職員の安否の確認

(聞き手)
 発災当時の対応でうまくいったこと、逆に大変だったことは何だったのでしょうか。

(内海様)
 先ほど申し上げましたが、家族の安否を確認したいという職員に関しては、私も同じ思いでしたので、帰宅させました。
ですが、その他の職員は残ってくれました。
電話やメールがほとんど通じなかったので、私を含め、残った職員たちの家族がどうなっているかは分かりませんでしたが、私は、家族よりも、入居者や職員の事を優先して考えてしまいました。
余震が続く中、真っ暗な施設を職員と一緒に守ったことに関しては、常日頃から仕事に対する責任や使命感が活きていたと思います。
もしかしたら、普段から職場内での関係性が良好でなければこうはならなかったでしょう。職員が残ってくれて本当に助かりました。
 私は、外部との連絡を何とか取ろうとしていたので、施設内のことは当時の主任と現場のリーダー格の職員たちが取りまとめてくれました。それぞれの役割をきちんと果たせていたので、とても良い連携が取れたと思います。
それから、電気や水が既に使えない状況でしたので「非常食を使って早めに夕食を食べてもいいですか」と職員から申し出があり、備蓄品を使って食事を作りました。
缶詰とおにぎりを1人2個ずつに分けて、備えの水を飲んでその日は過ごしました。
あの時は、居室で寝る方もいらっしゃいましたが、入居者の皆さんも不安だった事もあり「食堂のフロアに集まって寝てもいいですか」と聞かれたので、そのようにしました。
そういった連携は上手くいっていたと思います。
 逆に失敗した事は、職員たちの避難場所を聞いていなかったので、帰宅した職員たちと連絡が取れなくなり、安否確認が出来なくなってしまった事です。
こちらが少し落ち着いてから、車で職員たちを探しにいきましたが、自宅に行っても見つけられませんでした。
ですが、どうにか避難所を回り、見つける事が出来ました。
あの時、第一避難所、第二避難所くらいは聞いておくべきでした。

他の被災地域の障害者の受け入れという支援

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に向けて、福祉分野の充実のためには何が必要だとお考えですか。

(内海様)
 話が少々前後しますが、平成22年秋に多賀城市さんで地域密着型サービス事業の一環であるグループホームを一般公募されました。
平成24年3月までに建物を完成させ、4月の開設を目指した施設でした。
私たちも応募して、私たちの法人がその枠を取得し、グループホームを多賀城市さんと事業展開できるところまでいきました。
その結果通知を平成23年2月に頂きました。
今までのノウハウを活かし、他の地域で高齢者福祉の力になれれば良いと思っていました。
そして、その翌月に震災が起こったのですが、大和町にあるもう一つの事業所ともども、松島の施設は無事でした。
そんな中、障害を持っている避難者や高齢者の方は、避難所で暮らしていく事はなかなか難しいので、こちらで預かってほしいと連れて来られた方も沢山いらっしゃいました。
 職員の一人は、震災当時、石巻市の他の事業所の職員として働いていて、津波被害を受けました。
東松島市鳴瀬に自宅があり、自転車で片道60キロくらいの距離を2日かけて帰ったそうです。
自宅の安全確認ができたので、塩釜市の実家に帰ろうと思ったようですが、その途中、私のことを思い出し、立ち寄ったとのことでした。
状況を聞くと、石巻の施設が被災し、19人の入居者が取り残されているという話を聞きました。
私は、放ってはおけず、職員たちと一緒に、その方たちを車で迎えに行きました。
そして、3月18から21日の4日間、19人の入居者と4人の職員を、私の施設でどうにか受け入れをして対応させて頂きました。
その後、3月21日に石巻の施設の片づけが終わり、受け入れできる体制が整ったとのことで送っていきました。
それから、職員たちと「もっと自分たちで何かできる事はないか」という事を話し合いました。
もちろん事業を再開したいという思いはありましたが、その前に、どこの避難所にも高齢者の方や認知症の方が不自由な生活をしているのではないかと考え、避難所めぐりをして、困っている人を受け入れる事に決めました。
そもそも、私たちはたまたま沿岸部にいなかったので助かりました。生き延びたというより生かされた身です。
ですから、私たちだけが幸運ではなく、高齢者や避難所にいる方の不安を少しでも軽減する役割をしなければいけないという事で職員たちと一緒に動きました。
 それから、多賀城市役所に行って「力になれる事はありませんか」と尋ねたところ、体育館や学校に避難している方々の中には、避難所ではとても不自由で避難生活が難しい方も沢山いるという事でしたので、「私たちで受け入れるのでリストアップして下さい」とお願いしました。
そして、3月25日に早速迎えに行き、松島桜の家の部屋を全て開放しました。
避難生活をされていた方は大変な思いをしていたと思います。
こちらに来てからは、どうにか食事を1日3食食べて頂いていましたし、飲み物も確保していました。
洗濯は、近くの川を利用しました。
それから、体調を崩して発熱した人には、雪をバケツで固め直して氷を作り、それを熱さましに使った事もありました。
今は便利な社会になっていますが、いざ電気と水道が使えなくて火を起こす事ができなくなると、逆に知恵が出てきます。
普段。いかに贅沢して暮らしてきたかが分かったような気がしました。
 それから、人間をよく知る事が出来た良い機会でもあったと思います。
震災時は、自分さえよければいいという人と、自分には何ができるだろうと考えた人たちで、大きく分けて2つに分かれたような気がします。
もともと日本という国は、自由・平等・博愛の精神のもとにある民主主義国家なので、日本人同士での「助け合い」のようなものはあったと思います。
 突然の災害では、将来に希望を抱いていた人たちが多く犠牲になりました。
言葉では言い表せないのですが、私たちはその人たちの分まで前を向いて生きていかなければいけないと思っています。
今の世の中、大変な事が沢山あると思いますが、あの時の事を思い浮かべると、今、目の前で起きている問題は別にたいした事はないと思えるようになりましたし、犠牲になった方の分まで、私たちはこれから生まれてくる子供たちと共に、前を向いて生きる責任があると思っています。
あの震災を経験した人たちには、そういう使命があると思います。

25施設が市の指定避難所に

(聞き手)
後世に伝えたい事は、今おっしゃっていた事になるのでしょうか。

(内海様)
 そうですね。多賀城市長さんも平成25年度までは復旧期で、平成26年度から復興のための再生期に向かうと話されていました。
また、平成25月11月29日には、25の法人が多賀城市さんと、災害時に福祉施設福祉避難所として利用するための協定を締結しました。
県内の多くの法人が、東日本大震災の経験を活かして、使命や責任を持って働いています。
介護保険制度に変わってから、私たちのサービスは商品化されました。
これから先、高齢者は増加傾向にあります。
高齢者サービスをより向上させなければ、当事業所を選択する利用者さんは減っていく一方です。
ですから、自分たちのサービスのクオリティの質が求められていくと思います。
今回、多賀城市さんと協定を締結した25の法人や、これから福祉避難所になり得る事業者を含めて、一体となり、住民の方々を支えていく、あるいは互いに寄り添えるような人間関係を組織ぐるみで構築していかなければ、いざという時に連携が取りにくい気がします。
ですから、この震災を風化させる事なく、常にあの時の教訓をどこかで語り継いでいく必要があります。
また、同じような事が起きないとも限りませんので、皆さんで考えていかなければいけないところだとも思います。

全国的な連携体制の必要性

(聞き手)
 みんなが一つのチームとなっていく必要があるという事でしょうか。

(内海様)
そうですね。私も震災当時、北は北海道、南は九州まで全国の都道府県の人から多くのご支援を頂きました。
その方たちは、私の個人的な友人で、私と同じように福祉施設を経営している方や仕事をしている方たちです。
震災時、本当に必要だと思った事は、被災した地域だけで連携するのではなく、遠く離れた場所とも、点と点を結ぶような連携体制を持ち、お互いの顔が見えるような関係をつくっておくことだと思いました。
本当に心が折れそうな毎日でしたので、特に支援はなくても、「大丈夫ですか」「生きていますか」というような応援メッセージを頂けるだけで、私たちにとっては本当に心強い支えになりました。
そういった顔の見える繋がりを常に持ち合わせていなければ、災害はテレビで見るだけの遠いもので、支援する、あるいは支援されるという、いざという時に大変苦労すると思います。
これから復興をしていく中で、多くの人から支援して頂いた事や、色々な人から応援メッセージをもらった事、あるいは励みになった事は沢山あったと思います。
そのような事を忘れず、当時の経験を受け止めて、前を向いて歩む事が、次の世代が復興していく上で必要不可欠なものだと感じています。
 物や建物は、お金はかかりますが直す事が出来ますし、新しい物を買えばいい事だと思います。
しかし、メンタル的な部分は時間がかかる事だと思うので、絶対に乗り切って頂きたいと思います。